初めましてハスです。
プロフィールを覗きにきてくれて、ありがとうございます。
私の今まで人生をざっと書いてみました。
簡単に自己紹介
初めましてハスと申します。
現在44歳で、夫と息子二人の4人家族。
会社員で事務をして14年目になるバリキャリ兼業主婦です。
SNSにも興味が全くなかったネット知識ゼロの主婦がなぜにWebマーケティングで目標1年後に月収50万円、2年後に月収100万円を達成する目標にしたのか、その経緯とキッカケをお話ししようと思います。
基本情報
好きなこと:海外旅行、訪れたことのない土地の文化や人に触れたり、日本にはない広大な景色を見たりするのが大好きです。
週末の過ごし方:二人の息子が野球のチームに所属しているために週末はもっぱら野球の試合だったり、練習を見に行ったりしていることが多いです。
何もない日ははネットサーフィンしたり、息子とデート(買い物行ったり)、ガーデニング
好きな本:
「夢をかなえるゾウ」シリーズ2が特に好き
「大好きなことをしてお金持ちになる」本田健著 本田さんはたくさん本を出されていますがこの本が今の私に響いた
「思考は現実化する」…ナポレオン・ヒル 表紙が堅そうで読みにくそうだけどさすが世界の名著。 成長したい、自らの人生を十分に全うしたいと思っている人にオススメ。
中高生:英語に目覚める
中学生の頃に習い始めた英語にとても興味を持ちました。
英語に惹かれた理由は英語の先生が面白くて大好きだったこと。
そして、いつか先生のように英語を話せるようになりたいと思うようになっていました。
中学生の頃は、英語をとにかく夢中で勉強しました。成績も5。
しかし、高校に行くと成績は丘を下り落ちるかのように下がっていきました。
原因は大学受験のための勉強だったこと。テストだけのための読み書きの勉強に嫌気がさしました。
でも、英語が話せるようになりたいという気持ちは消えていなかったんです。
私が通っていた学校は進学校で、先生達は多くの生徒を大学に進学させたい、そして学校をどれだけ魅力的にするか、それだけに注力していた気がします。
私が先生に進路相談をした時に英語も話せないのに留学はおかしい、留学は大学を卒業してからでも遅くはないのではと言われたのです。
この頃から、とても日本の考え方に違和感を覚えていました。
なぜみんな同じようなレールに乗らなければならないのか?
この疑問が自分の中にあり、益々アメリカの自由さが魅力的に見えていきました。
私が当時ハマっていたアメリカのテレビ番組”フルハウス”。学生がピアスをつけ、私服で学校に行っている風景が日本とは真逆で衝撃的でした。
自由というスタイルに憧れ、留学という道を選んだわけですが、担任の先生からは冷たく突き放されました。
なので、全て留学する情報を自分で集めなければなりませんでした。
ある日、私の友人が留学のパンフレットを私にくれました。条件付きだったけれどTOEFL
のスコアがなくても留学できる大学でした。
私はここしかない!と頭の中に電波が走るような直感を感じました。
その業者にすぐに連絡をして、申請書を送ってもらいました。
大学の申請書も説明書もちろん英語。わからない英単語だらけで辞書を引きながら読んで一生懸命記入し、申請しました。
高校卒業後無事に渡米。
アメリカ留学:英語との葛藤
シカゴの郊外にある小さな大学。
初めは英語クラスからのスタート。読み・書き・スピーチの3つのクラス。
クラスにはいろんな国から集まっていて、発言も色々。みんなよく話すし意見をぶつける。自分の意見を言っても変な顔をしない。
その一人の意見に共感をするけど、誰も自分の意見を同調させようとする人はいませんでした。
日本で黙って座って先生の講義を聞くようなスタイルになれた私にはとても新鮮な環境でした。
しかし、そんな楽しいことばかりではありませんでした。
まず、ローカルの人が話す英語が全く聞き取れない、頑張って質問するけど、相手の言っていることが理解できない。発音が悪くてわかってもらえない。
こんな日々は続きました。英語のテレビを毎日見たり、ラジオを聞いたり、勉強しているのに一向に伸びない英語に心が沈みました。
こんなポンコツな英語しか話せない私に、バイトをする機会が訪れます。
それは日本食屋さんでのバイト。たとえ日本食やといえど、98%はローカルのお客さん。アメリカ人のお客さんに接客できるか正直不安でした。
どうしようかと悩んだのですが、私のホストマザーに門限をつけられていて、アパートに引っ越したいと思っていたところだったのでバイトをすることに決めました。
このバイトでかなり英語が鍛えられました。嫌でも話さなければならない環境に自分の身をおいたて過去の自分を褒めてあげたいです。
このバイトを辞めてから20年以上経っていますが、未だに繋がっている友達ができたこと、そしてここでチームとして働く大事さを学ぶことができたことは大きな経験となっていて、今の私の働き方にかなり影響していると思います。
バイトをしながら大学に通い留学して4年、無事に卒業。
20代半ば:ダブルパンチ
日本に帰国して派遣社員として色々な職場で働き経験を積みました。
そして色んな人とも繋がることができて一見充実していたように見えていたけど、私の心はいつも何か穴があいたような、しっくりこない感覚が常に付きまとっていました。
20代後半〜30代後半:モヤモヤ期
時は少し流れ、数年が経ち、30歳少し前に結婚。数年後に長男誕生。
長男が2ヶ月目で仕事復帰。
なぜこんなスピードで復帰したのかというと、私の収入なしでは家計が苦しかったこと、そしてやっと見つけた仕事だったので辞めるわけにはいきませんでした。
夜の授乳で何回も起こされ寝不足、朝も車で長男を義母の家に連れて行き、会社まで1時間半かけて出社。平日はクタクタ。
週末はどこに出かける気力も体力も無し。体重は妊娠前より5キロも減ってしまい、仕舞いには髪もかなり抜け落ち前頭がスカスカになる始末。
それでも真面目に仕事に行きました。
2015年に次男誕生。さらに私は育児と仕事で忙しくなり始めたと同時に仕事に関してモヤモヤし始めます。
次男が生まれてから
会社に行って働くことについて疑問を持ち始めた
30代の頃はとにかく昇格したい、もっとお給料を上げてもらいと思い一生懸命働いて
上司に認めてもらおうと努力しました。
数年前の新型コロナウイルスにより仕事が完全にリモートに切り替わり、仕事に対する考え方や働き方も変わった人が多いと思います。
私もそのうちの一人で、ここ数年のある経験をキッカケに仕事へあり方や考えが変わりました。
仕事のストレスがマックス
突然ですが、燃え尽き症候群(バーンアウト症候群)って知ってますか?
慢性的なストレスによって心身が疲弊し、仕事への意欲や集中力、達成感が低下する状態になる心・体の病気です。
主な症状としては以下のようなものがあります。
身体的症状
- 疲労感
- 睡眠障害
- 頭痛
- 消化器症状
- 免疫力の低下
情緒的症状
- 憂鬱
- 不安
- イライラ
- 無気力
- 感情の起伏が激しい
行動的症状
- 仕事への意欲低下
- 集中力の低下
- ミスや事故が増える
- 欠勤や遅刻が増える
- 人との関わりを避ける
実は、私は3年ほど前にこの燃え尽き症候群になってしまったんです。
コロナ禍真っ只中。仕事は相変わらず忙しいのに、次々にチームメンバーが辞めていきました。
その辞めた社員の埋め合わせをするために残ったメンバーで仕事を振り分けたのですが、朝から晩までフル稼働しているのに一向に終わらない。
次から次へと問題発生。新しい人が入ってくるまで頑張ろうと思っていたのですが、なかなか入ってこない。
その状態が6ヶ月ほど続きました。そして、ストレスがマックスになっていたんです。
このストレスが身体にも影響し始めました。毎日頭痛が続き、毎日頭痛薬を飲む始末。
夢の中でも私は仕事に追われていて、睡眠薬を飲まないと寝た気がしないようになっていました。
半分鬱っぽくもなっていて、この世から消え去りたいとも思うようになっていました。
こんなに頑張っているのに会社では全く評価されない、私はなぜここまでして仕事をしなければならないのか? 会社にとって、私はただの駒扱いじゃないか
そんな怒りが込み上げました。
母親失格
朝から晩までパソコンの画面に張り付き、在宅で仕事をする私を見て次男(当時5歳)が私のそばで寂しそうに立っていたんです。
そして、彼は言いました。
「ママはどうしてそんなに働かないといけないの?」
「それはね、生活のためだよ」と私は答えました。
「僕はリッチで、お金があるから、ママはもう働かなくていいよ」と言って
彼が持っているすべての小銭袋を私にくれました。
この時に、こんな寂しい思いをさせていたのか、私は母親失格。
いつも仕事優先していた私が、もっと子供との時間を増やしたいと思わせるキッカケになる出来事でした。
そしてなんとかしてこの状況を脱却しなければと考えるようになっていて、私がその時だした答えは、「他の会社に転職しよう」でした。
ただコロナ禍中の転活はとても厳しいもので、仕事があったとしても今の条件より悪かったりなかなか踏み切ることができませんでした。
父の病気発覚
43歳になった時にまたもや考えさせられる機会がありました。
それは父の病気が発覚。
両親が年老いてきていることにハッとさせられました。
まだまだ若いと思っていました。さいわいにも死に至るような病気ではなかったものの、完治する病気でもないので一生向き合っていけない。
そして、両親が年老いているぶん、自分も老いてきている。人生の後半に向かっているのだと考え始めたのです。
自問自答しました。
自分も人生の折り返し地点にいて、後半の人生をどう生きるのか?
老後の貯蓄は十分にあるのか?
子供達の大学費用の貯蓄はあるのか?
自分のキャリアはどうするのか?
答えは
自分の老後のことを考えていなかった。(なんとなく退職なんてまだ先の話だと思っていた)
老後のための貯金が全然足りない。
子供が大学に行く頃には大学費用は上がっていると思うので、それを考慮すると全然足りない。
キャリアもこのまま退職するまで働きたい、続けたいと思わない。
一気に将来が不安になり、焦りました。今まで何をしてたんだろう私。
なんかこのままいくと明るい未来が見えない、全然ワクワクしない。
ここで将来をどのようにしていきたいのか考えないとヤバい、そう思ったんです。
両親と過ごせる時間もそう長くはない。
副業を始めようと試みた
このままこの会社に依存しても収入は増えない、家族との時間も増えない。
でも仕事を辞めてしまったら、家計は火の車。
そんな時にYoutubeで副業でお金を稼いでいる人たちの投稿が上がってきました。
ブログやSNSでお金を稼いでいる人がいることを知って衝撃を受けました。
私の当時のブログのイメージは主婦の日記帳。
SNSは自分の生活がいかにキラキラしているか自慢する場所。
なのでブログにもSNSにも全く興味がなかった私ですが、お金を稼いでいる人がいるというの知って、
低リスク、低コストでできるブログを私もやってみよう!と思いブログを開設しました。
とりあえず将来への自己投資としてノート型パソコンを買い、私の隙間時間はすべてブログにあてました。
最初の壁がワードプレスの開設。たかをくくっていました。みんなやってるし簡単にできると思い込んでいたんです。
それが、実際使ってみると全く使い方がわからない、ボタンも多い。どれがどうなのかさっぱりわからない。
ワードプレスを設定して、記事が書けるようになるまで2週間かかりました。
やっと記事が書ける状態になり気がついたんです。。
さて、何を書いていこう!? コンセプトも何もないし、自分が他の人に価値が与えられるような知識も経験もない。
でも何も書かないと始まらないと思い、とりあえず自分が書けそうなことを書き始めました。
ブログは蓄積型の媒体ですぐにお金を稼ぐことはできないことは知っていましたが、一向に増えることのないページビュー。
読んでくれているのは恐らく私の友達と家族のみ。
出来上がったのは軸がブレブレの雑記ブログ。
私の周りでブログやネットで生計を立てている人はいなかったため、何が悪いのか?改善するポイントが不明なまま1年半経過。
私の覚悟
自分のブログビジネスは見事に失敗し一円も稼ぐことができなかったわけですが、気付きや学びをくれました。
簡単に稼ぐことはできないということも理解しました。
最短で!簡単に〇〇円稼げるなんてトピックに飛びついたりしましたがビジネスやマーケティングの基礎が必要です。
たまたまラッキーパンチでお金を稼いだ人もいるかもしれませんが、ラッキーパンチは宝くじに当たるようなもので再現性がないんです。
なので、またお金の不安からは逃れられないのです。
ビジネスの基礎やマーケティングを学べば再現性がある。もし全て失ってもまた1から始められることがわかりました。
スクールに入るのはお金もかかるし、そして決して安い金額ではないのである程度の覚悟が必要です。
ただ、もし少しでもビジネスを始めたいと思っているのであればスクールに入ることをお勧めします。
無料の情報はあちこちに転がっていますが、知識がない素人には本質がわからないことが多いので、自分の理解と合っているのか?そこで答え合わせができないと、間違った方向に進んでしまい、結局時間の無駄になってしまいます。
そんな貴重な時間を無駄にしてしまうよりもスクールに入る方がいいと思い、私は覚悟を決めて入りました。
最後に:変化を恐れず、挑戦し続ける
コロナ禍の影響は、私が仕事に関する価値観に大きな変化をもたらしました。
ストレスによるバーンアウト症候群、そして中年期の危機に直面した私は、自分の人生を改めて見つめ直す必要性に迫られました。
副業で挫折を経験しました。しかし、そこで諦めることなく、スクールに通い、Webマーケティングのスキルを本格的に磨くことを決意しました。
そして冒頭にも書きましたが、Webマーケティングで1年後には月50万円、2年後には100万円というゴールを設定しました。
今後も、更なるスキルアップを目指し、学び続けながら、人生を豊かにしていきたいと思っています。
もしこれを読んでいるあなたも人生に迷っていて、自分のビジネスを始めたいと思っていたら是非私の記事を参考にして欲しいです。
わかりやすいようにステップバイステップで記事を進めていけるようになっています。